
この記事を執筆している本日、私がウクレレを始めてから暦日換算で1年9ヶ月が経過しました。635暦日の中で、548日練習していますから練習率86%。昨年の序盤の練習が空いた時間を入れても、週のうち5〜6日は練習をしている計算になりますし、今年に入ってからは1日たりとも練習を欠かしておりません。日数の連続性よりも習慣的にこなせている事実のほうが個人的には嬉しいです。
「それだけ続ける秘訣は何なのか」と、ある人に問われ「一生モノにしようと思ったからかなあ」と考えたので今日はその話をします(この話は方法論と精神論があると思っており方法論は【「どうして、ウクレレパパの練習は毎日続くのか?」について話そうと思う】で述べているので今日は精神論のお話です)。
▼ウクレレに触れるまで
当時35歳。社会人になり、仕事を覚えて10年が経過した私は、良くも悪くも仕事に「慣れてきた」ことを実感しておりました。日々繰り返しまでとは言わないけれど、予測の範囲内で仕事が回る事が多く(異動や昇進で環境が変わることもありますが)刺激と言う意味では仕事は「日常ごと」になっていました。
そんな折、娘が生まれました。彼女が歩けるようになったり、喋れるようになったりと言う日々の劇的な成長を1年、目の当たりにした時、私は純粋に思いました。
「この子は日々成長を続けている。大人の私はどうだろうか?」
「1年後に今日を振り返って『私は成長した』と振り返れるのだろうか? 」
「成長とは幼少期の特権なのだろうか? 」
「だとしたら、いまの私は何なのだろうか?」
考え始めるとキリがありません。
思えば、仕事はともかく私のプライベートは、なんとなく流行りものをかじりながら、時間とお金を消費していたようなイメージばかりです。流行りが廃ればそこには何も残りません。こんな事で良いのかなあと、少し危機感を覚えました。
その解決案を自己啓発やキャリアアップに繋げるという考え方もあると思います。ただ、私はたまたま「娘に音楽教育で還元する」と言う選択肢を選び、ウクレレに迎合してみました。最初はシンプルに「娘のために」でした。
▼広告文にハッとした日
そんな私がウクレレを始めて数ヶ月経った、ある日のことです。
たまたま読んでいた冊子の、郵便貯金のキャッチコピーを見て戦慄が走りました。
そこにはこう書いてありました。
「人生の半分は無職である」
ハッとしました。私は自分がサラリーマンであることが、(なぜか)さも永遠に続くように考えていた事に気がつきました。サラリーマン人生の後「老後」に、そんなにも大量の「時間が存在していること」に軽い目眩(めまい)を覚えたほどでした(実際は社会人になるまでの子供の期間も「無職」に入っているのでもう少し短いのですが)。
でも、その時に同時に、私の手元にはウクレレがある事に気がつきました。
そして私は「これを使えば、人生を豊かに出来るのではないか」と考えました。
「音楽を演奏できるようになる」ことは「永遠に続けられる成長ではないか?」と考えたのです。
それに、演奏のレベルが上がれば自己満足に終わらず、他人にも喜んでもらえます。成長(円熟)をしながら、体力も気にせず、アウトプット(生産)のできる趣味は、実はそう多くありません。
家族や近所の子供たちと楽しめるような、それでいて日々の成長を実感出来るような「一生モノ」の趣味。
私にとってのソレをウクレレにしようと決めた時、日々の練習を苦痛に感じることは無くなっていました。もともと楽しんで取り組んでいましたが、この時ハッキリと目的を持った事で、より習慣化する意志が芽生えたのだと思います。
こうして「ライフワークとしてのウクレレ」として自分の中で整理した事が、習慣化できた秘訣なのかもしれないと思いました。
私はウクレレには、その価値があると思っています。
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